ピューマ渡久地は、世界王者になれなかった男として語られることが多い。
だが、それは本当に正しい言い方なのだろうか。少なくともファンの記憶の中で、彼は「届かなかった挑戦者」ではない。届いていた可能性を、最後まで残したまま終わった存在だった。
日本フライ級で見せた爆発力、倒しにいく姿勢、観客の感情を一気に引き上げる危うさと華。国内レベルでは疑いようのないトップクラスであり、世界に挑む資格も力も、確かに備えていた。にもかかわらず、彼のキャリアには常に一つの影が差し込んでいた。
それが、勇利アルバチャコフという、同時代に存在してしまった“完成された世界王者”である。
ボクシングの歴史を振り返れば、
同じ実力であっても、
時代と階級の巡り合わせによって、世界王者になれる選手と、なれない選手が生まれてしまう現実がある。
同時期に突出した王者が不在だったことで、運良くベルトに辿り着いた選手がいたとしても、それは決して恥ずべきことではない。むしろ、世界王者とは本来、実力と運の両方を掴み取った者に与えられる称号なのだ。
だからこそ、ピューマ渡久地の立ち位置は、より切実に胸に迫る。
彼には力があった。覚悟もあった。
ただ、そのすべてを試す相手が、あまりにも強すぎた。
もし時代が少しずれていたなら。
もし同じ階級に、あれほど完成度の高い王者が存在しなかったなら。
そうした「たられば」は、勝負の世界では禁句だと分かっている。だが、それでも語ってしまうだけの余白が、ピューマ渡久地にはある。
それは敗者の未練ではなく、可能性が確かに存在した証拠だからだ。
時代の不運。
才能の衝突。
そして、強すぎる王者が同時代に存在してしまったという、ボクサー個人では抗えない現実。
ピューマ渡久地は弱かったから世界王者になれなかったのではない。
むしろ逆だ。強かったからこそ、同じ時代の“本物”と真正面からぶつかってしまった。
この記事では、ピューマ渡久地という逸材が背負った時代と運命、そしてファンが今も語りたくなる「たられば」の正体を、できるだけ誠実に掘り下げていく。

私
ピューマ渡久地って、世界王者になれなかったボクサーとして語られがちですが、正直それだけでは片づけられない何かがありますよね。

ジョー白井
ありますね。むしろ私は、
「世界王者になれなかった理由が、あまりに明確だった男」
という印象を持っています。

私
やはり、勇利アルバチャコフの存在ですか。

ジョー白井
ええ。
勇利アルバチャコフ
彼は強かった、という言葉では足りない。
同階級にいる限り、回避も言い訳も成立しない完成度でした。

私
もし同時代に彼がいなければ、ピューマ渡久地は世界王者になっていた、そう考えるのは甘いでしょうか。

ジョー白井
甘くはないですね。
ピューマ渡久地
彼は「挑戦者としての完成度」は十分に世界級でした。
ただし、王者としての運を持っていなかった。

私
運、ですか。

ジョー白井
ボクシングは残酷で、
同じ強さでも
- 王者が空位の時代
- 絶対王者が君臨する時代
では、結果がまったく変わる。

私
運良く世界王者になった選手がいたとしても、それを責める気にはなれませんよね。

ジョー白井
その通りです。
世界王者とは「最強の証明」であると同時に、
時代の配置に選ばれた存在でもある。

私
そう考えると、ピューマ渡久地は時代に選ばれなかった。

ジョー白井
ええ。でも、それは価値が低いという意味ではない。
むしろ逆で、
選ばれなかったからこそ、記憶に残ってしまうタイプです。

私
たしかに。
勝ち方がきれいで、順当にベルトを獲った選手よりも、
届きそうで届かなかった男の名前の方が、ずっと残る。

ジョー白井
渡久地は、
「もう一歩で世界だった」という距離を、
観客に見せてしまった。
それは時に、世界王者になることよりも罪深い。

私
だから今でも「たられば」を語りたくなる。

ジョー白井
そうです。
ピューマ渡久地という存在は、
ボクシングが実力だけでは完結しない競技だという証明なんですよ。

私
世界王者になれなかった男、ではなく。

ジョー白井
世界王者になれたかもしれない男。
その違いを分かっている人ほど、彼を忘れられない。