あの試合が、なぜ今も語られ続けるのか。
それは、すでに起きた事実だけでなく、起きなかった未来が、あまりにも生々しいからだ。

9ラウンド、マーク堀越は倒れ、立ち上がった。
足元はわずかに不安定で、レフェリーは試合を止めた。
その判断は、ルール上も、安全面から見ても、決して間違いとは言えない。

だが、ボクシングファンとして、どうしても思ってしまう。
——もし、あの瞬間に続行されていたら、と。

冷静に考えれば、続行されていれば、
高橋ナオトが再びダウンを奪われていた可能性は十分にある。
それまでのラウンドが、そうだった。
倒され、意識が揺らぎ、足が止まり、それでも前に出る。
この試合は、終始その繰り返しだった。

だからこそ、想像はこう続く。

もし続いていたら、
高橋ナオトはもう一度、倒されていたかもしれない。
観衆は息を呑み、空気は一気に重くなり、
「今度こそ終わりか」と誰もが思ったはずだ。

——だが、それでも。

それでも高橋ナオトは、
もう一度、打ち返しにいったのではないか。

それが、このボクサーの本質だった。
アウトボクシングに徹することもできた。
もっとスマートに勝ち、綺麗なレコードを刻む道もあった。
それでも彼は、殴り合いの中に身を置き、
観客の感情が最も揺れる場所へ、無意識に足を運んでしまう。

「逆転の貴公子」という異名は、
結果としてついたものではない。
自ら選び続けた戦い方が、そう呼ばせたのだと思う。

続行されていれば、
堀越が踏みとどまり、再び流れを引き寄せた可能性もある。
あるいは、高橋がもう一度だけ奇跡を起こし、
本当の意味で“山を越えたKO”を完成させていたかもしれない。

どちらに転んでも、
そこに待っていたのは、称賛だけではない。
身体の限界、取り返しのつかないダメージ、
そして、選手生命そのものだった可能性もある。

だからレフェリーは止めた。
止めたのは試合であり、
同時に、これ以上深く沈んでいくかもしれない地獄だった。

それでも私たちは、想像してしまう。
続いていたら——
高橋ナオトは、また倒され、
それでも立ち上がり、
そして、もう一度だけ倒し返しにいったのではないか、と。

その想像が消えない限り、
この試合は終わらない。

そして今もなお、
**「逆転の貴公子」**という言葉で検索すれば、
そこに浮かび上がるのは——
やはり、高橋ナオトというボクサーの名前なのだ。

ジョーさん、この試合を見返すたびに思うんです。
レフェリーが止めた判断は正しかった。でも、それでも——
続いていたら、と思ってしまう自分がいる。

ジョー白井

ああ、その感覚は健全だよ。
ボクシングファンが「もしも」を考えなくなったら、それはもう試合を“結果”でしか見ていない。

続いていたら、高橋ナオトがまた倒されていた可能性は高いですよね。

ジョー白井

高い。かなり高い。
流れも、消耗も、冷静に見ればそうだ。
でもな——

でも、倒されたままでは終わらなかった、ですよね。

ジョー白井

そうだ。
彼は「倒されて学ぶ」タイプじゃない。
倒されて、なお打ち返す男だった。

それが“逆転の貴公子”と呼ばれる理由なんでしょうね。
勝ち方じゃなく、戻り方。

ジョー白井

いい言葉だ。
彼は、勝つために安全な選択をしなかった。
観客の感情が一番荒れる場所へ、いつも自分から入っていった。

だからこそ、もし続いていたら——
もう一度、地獄が来た気がするんです。

ジョー白井

ああ。
続行していれば、
高橋が倒され、
堀越が踏みとどまり、
そしてまた、どちらかが限界を越えていた。

止められたのは試合だけじゃなかった、と。

ジョー白井

そうだ。
未来そのものが止められた。
だからこの試合は、終わらない。

結果より、起きなかった結末が残ってしまった。

ジョー白井

名勝負というのはな、
完全だった試合じゃない。
止まった瞬間に、想像が動き続ける試合のことだ。

……だから今も、見返してしまうんでしょうね。

ジョー白井

そしてきっと、これからもだ。
「逆転の貴公子」という名前が検索される限り、
この試合は、何度でもリングに戻ってくる。

リングの記憶と対話〜ボクシングを語る架空の賢者ジョー白井と私〜ボクシング交差点