あの試合を、ただ「ひとつの勝利」だなんて、私はどうしても割り切れないんです。
小さな100勝よりも、魂を揺さぶるたった1勝──
そんな言葉がぴたりと胸に残る試合が、私にはあります。
1997年11月22日。
世界戦3連敗中で完全に終わったと思われた矢先に手にした“ラストチャンス”とも言われた世界タイトルマッチ。
相手は、無敗のWBC世界バンタム級王者・シリモンコン・ナコントンパークビュー。
そして結果は──7ラウンドKO勝ち。
でも、私のなかでこの夜は、ただの勝利ではありませんでした。
まるで“紙一重の奇跡”が、あのリングで起きたかのような……そんな、少し震えるような記憶なんです。
試合序盤──特に5ラウンドまでは、本当に完璧でした。
あのときの辰吉選手は、今思い返しても胸が高鳴るほど美しくて、鋭くて、強かった。
けれど6ラウンド、そして7ラウンド……
突然、空気が変わるんです。
彼の足が止まり、顔がゆがみ、苦しさがあらわになる。
もうダメかもしれない──
テレビの前で、思わず目をそらしてしまいそうになるほどの劣勢。
でも、辰吉選手は下を向かなかった。
きっと心の奥では、ほんの少しも諦めていなかったんだと思います。
そして、その瞬間がやってきます。
倒される寸前、限界ギリギリの身体から放たれた、あの左ボディ。
まるで、リングの神様がいたずらを仕掛けたようなタイミングで、奇跡が起きたんです。
レフェリーのリチャード・スティールが、試合を止めたあの瞬間。
ズームアウトされたテレビ画面に映る辰吉選手の姿は、今でも目を閉じれば鮮明に蘇ります。
しかもその日は──11月22日。“いい夫婦の日”。
もしかすると、あの左には、そばで支え続けてきた奥様・るみさんの想いも重なっていたのかもしれませんね。
これは、数字や記録だけでは語れない、ひとつの“勝利の夜”について。
私の心に静かに残り続けている、ある奇跡の記憶です。

私
ジョーさん、あの試合を“劇的な勝利”って一言でまとめるの、僕にはちょっと無理なんですよ。

ジョー白井
うん、無理だろうな。 |
あれは辰吉だけの勝利じゃなかった。 |
家庭、仕事、夢、プライド── |
何かを背負って生きてる男たちの気持ち全部が、あのリングに重なってた。 |

私
正直、辰吉はもう全盛期を過ぎていたと思うんです。 |
それでも、あの日は5ラウンドまで、まるで別人のように見えました。 |
あの辰吉が戻ってきた、って思わせるくらいに動きが良かった。 |
たぶん、奇跡的に体がキレてたんでしょうね。 |

ジョー白井
たしかに。 |
あれが“いつもの辰吉”だったら、違う展開になってたかもしれない。 |
それに、シリモンコンの方も調子が悪かった。 |
減量に失敗してたって話もあったし、動きにキレがなかった。 |

私
だからこそ、なおさら5ラウンドまでは、辰吉が圧倒してたように見えました。 |
世間からは“終わった選手”みたいに言われてたけど、あの時間だけは本当に強く見えた。 |

ジョー白井
ああ、“もう一度だけ輝く瞬間”ってあるんだよな。 |
でもその光は、たいてい儚い。 |
6ラウンド以降、それが証明されたような展開だった。 |

私
テレビの前で見ていて、6ラウンドの途中から、もう祈るような気持ちでした。 |
「これが最後の姿になるのかも」って。 |
でも、辰吉って、なぜか“負ける姿”すら美しいんですよ。 |

ジョー白井
あいつはな、「諦め方」を知らない男だ。 |
だから、あの左ボディが出たんだよ。 |
負けの手前で、最後の一枚をめくった。 |

私
1%未満の確率でしか起こらないような逆転劇。 |
あの瞬間、リングが“現実”じゃなくなった気がしました。 |

ジョー白井
うん、あれは現実離れしてた。 |
でもな、ボクシングってそういう“瞬間”を待つ競技でもある。 |
100回中99回は無理でも、1回が起きる。 |
その1回に全てを賭けられるかどうか──辰吉は、賭けられる人間だったんだよ。 |

私
そして、その1回を引き寄せたのが、るみ夫人だったのかもしれません。

ジョー白井
ああ。 |
たぶん辰吉の背中には、彼女の声も乗ってたんだろうな。 |
夫婦ってのは、闘うときに、言葉じゃないところで繋がるもんだ。 |

私
“男の勝負”って、ひとりじゃないんですね。

ジョー白井
そう。拳を振るってるのは本人でも、 |
その拳を握らせてるのは、誰かの存在かもしれない。 |

私
……あの夜の辰吉の勝利は、 |
「勝てた」じゃなく、「勝たせてもらえた」のかもしれませんね。 |

ジョー白井
いい表現だな。 |
そういう夜こそ、語り継ぐ意味がある。 |
記録に残る勝利じゃなくて、記憶に残る勝利。 |
そういう試合を、俺たちは忘れずに語っていこう。 |