俺は、長いことボクシングに関わってきたが──
この仕事を続けていると、だんだん“感情”を外に置くようになってくる。
泣かない。騒がない。取り乱さない。
拳の先にある“数字”を、冷静に読むのが自分の役目だと信じていた。
でも、この試合だけはダメだった。
1983年7月7日。七夕の夜。
“なにわのロッキー”赤井英和が、WBA世界Sライト級王者ブルース・カリーに挑んだ世界戦。
当時、日本人が中量級で世界を獲るなんて、夢のまた夢だった。
赤井の入場は、まるで映画のワンシーンだった。
両手を高く掲げ、真っ直ぐな目でリングへ向かうその姿。
もう腹は決まっていた。迷いも逃げ道も、一切ない覚悟の顔をしていた。
あの瞬間、俺の中の“プロの顔”はどこかへ飛んでいった。
まるで子どもに戻ったみたいに、胸が高鳴っていたんだ。
試合は序盤から厳しかった。
1ラウンドから5ラウンドまで、赤井はほとんど何もさせてもらえなかった。
見ていて胸が締めつけられる展開。
でも、6ラウンド──空気が変わった。
赤井が前に出た。
カリーが下がった。
会場が揺れた。拳を握った。声が出た。
あと一発、あと半歩。誰もが奇跡を信じかけた。
だが、7ラウンド。足が止まり、カリーの冷静な連打。
赤井は崩れ落ちるようにリングに倒れた。
七夕の夜に、7ラウンドKO──
できすぎたストーリーに見えるかもしれないが、不思議と清々しさが残った。
悔しさより、誇らしさが勝ったんだ。
あの背中は、“負けた男”の背中じゃなかった。
夢の果てまで、全力で走りきった男の背中だった。
原稿もメモもどうでもよかった。
ただ、胸が熱くなった。
あの夜、俺は“ただの赤井英和のファン”だった。

私
ジョーさん、その試合……リアルタイムじゃなくて、 |
ずっと後になって、ビデオで観たんです。 |
でも、不思議なことに、まるで“生で見た”みたいに胸が熱くなって。 |

ジョー白井
ああ……あれは、時間が経っても熱が冷めない試合だな。 |
赤井の姿に“何か”を重ねずにいられない男が、日本中にいたと思うよ。 |

私
6ラウンド、赤井がカリーをロープに詰めたとき── |
会場もそうですが、テレビの前も凄かったらしいですね。 |
で、僕が一番印象に残ってるのは……解説席から突然「ウォーッ!」って、 |
叫び声が響くんです。言葉じゃなくて、マイクが割れるくらいの。 |

ジョー白井
……ああ、あれはガッツ石松さんだよ。 |
解説席であんな声が出たの、後にも先にもあの夜だけかもしれない。 |
あの瞬間、みんなが“ボクシングを観てる人間”じゃなくなってた。 |

私
あの叫び声に、すべて詰まってる感じがしました。 |
「勝ってくれ」でも「いけ」でもなくて、 |
ただ、もう感情が吹き出しちゃったみたいな── |

ジョー白井
そう、あれは“願いの音”だったんだよ。 |
言葉なんて間に合わなかった。 |
あの場にいた誰もが、同じ気持ちだったと思う。 |

私
僕、そのシーンだけ何度も巻き戻して観ました。 |
拳を振る赤井も、声を上げるガッツさんも、 |
どっちも“闘ってる人間”に見えました。 |

ジョー白井
俺もあのとき、立ち上がりかけた。 |
いつもなら「冷静に見ろ」って自分に言い聞かせてるんだけど、 |
あの6ラウンドばかりは、拳を握ってた。 |

私
でも、届かなかったんですよね…… |
7ラウンド、ガス欠で崩れていく赤井を見たとき、 |
涙じゃなくて、ただ静かに心が震えました。 |

ジョー白井
そうだ。 |
あの負け方は、なぜか清々しかった。 |
負けた男が、なぜか一番“立って”見えた。 |