記録や肩書きは、いつだって便利だ。
「世界3階級制覇」「日本のエース」。そこに数字を添えれば、長谷川穂積という名前は、たちまち完成された“伝説”になる。けれど――不思議なことに、彼のキャリアほど「強さ」だけで語り切れないものもない。むしろ強かったからこそ、いくつかの空白が、いまも目に残る。
私は、長谷川穂積を否定したいわけではない。
むしろ逆だ。好きだからこそ、丁寧に大切に扱いたい。だからこそ、あえて触れたい“未完のピース”がある。
ひとつは、サーシャ・バクティン。
そしてもうひとつは、徳山昌守。
どちらも「勝っても得るものが少ないのに、負ければすべてを失うかもしれない」タイプの試合だった。人気や物語の回収という面で、リスクに対してリターンが釣り合いにくい。しかも相手は強い。負ける可能性が現実として見える。ボクシングが興行である以上、こういうカードが簡単に成立しないことは分かっている。ジムの意向、プロモーターの設計、テレビ、スポンサー、相手陣営の都合――いくつもの事情が絡み合う。その中で「最適解」を選ぶのがプロであり、王者であることも理解している。
それでも、心のどこかが引っかかってしまう。
なぜ、長谷川穂積は、あの二人と拳を交えなかったのか。
本物志向の言葉を、何度も口にしていたからこそ――なおさらだ。
さらに、もうひとつの対比がある。
フェルナンド・モンティエル。ジョニー・ゴンサレス。
こちらは「強豪」として分かりやすく、勝てば得るものも大きい。危険ではあるが、“勝つ理由”がはっきりしている。ところが長谷川は、その二人には、比較的あっさりと敗れている。もちろん、トップ同士の勝負で“あっさり”という言葉は乱暴だ。骨折やダメージ、噛み合い、タイミング――勝敗は紙一重で決まる。彼が弱かったから負けたのではない。むしろ、強さの証明として受けた試合だったのだと思う。
ただ、ここで妙な輪郭が浮かぶ。
「勝てば大きく得る」試合は受ける。
「勝っても得るものが少なく、負ければ失うものが大きい」試合は遠ざかる。
それは、誰だってやりたい選択だ。人間なら自然な判断でもある。長谷川に限った話ではない。むしろ、そういう現実的な計算ができるからこそ、長くトップに居続けられる――そう考えることもできる。彼のリング上の戦い方は、正々堂々としていた。打ち合う勇気も、退かない胆力も、逃げない矜持もあった。だからこそ、リングの外――“相手の選ばれ方”だけが、どうしても綺麗に噛み合わない。
そして私は、ひとつだけ、残酷な予想も抱いてしまう。
もしサーシャ・バクティンと徳山昌守が実現していたなら、長谷川は負けていたかもしれない、と。
この予想は、彼を貶すためのものではない。むしろ逆で、だからこそ見たかったのだ。負けるかもしれない試合に踏み込む瞬間にこそ、その選手の“芯”が剥き出しになることがあるから。勝ち負けよりも先に、そこにしか残らない何かがある。
この文章は、長谷川穂積を裁くためではない。
伝説を削るためでもない。
ただ、強さを愛した者として、強さの外側に残った空白を、もう一度そっと触ってみたい。
強さだけでは語れない――長谷川穂積に残る未完のピース。
それは、勝敗の記録の中ではなく、実現した試合と実現しなかった試合、そのコントラストの中に静かに残っている。

私
ジョーさん、長谷川穂積というボクサーを語るとき、どうしても私は「完成されすぎなかった強さ」を思ってしまうんです。

ジョー白井
分かるよ。その感覚。
彼は間違いなく強かった。スピード、タイミング、距離感。日本人離れしたセンスもあった。
でもな、“強さ”と“伝説”は、必ずしも同じ場所に立たない。

私
はい。
例えば、**長谷川穂積**が戦わなかった相手――
**サーシャ・バクティン**や
**徳山昌守**の名前が浮かぶと、どうしても胸がざわつきます。

ジョー白井
あの二人はな……
勝っても拍手が控えめで、負けたら一気に立場を失うタイプだ。
興行的には“扱いづらい強さ”だった。

私
分かってはいるんです。
ジムの意向も、プロモーターの計算も、テレビの事情も。
それでも、本物と呼ばれるなら、あの二人とは拳を交えてほしかった――
そう思ってしまう自分がいます。

ジョー白井
それは、君が“勝ち方”じゃなく、“向き合い方”を見てきた人間だからだ。
長谷川はリングの上では逃げなかった。
でも、カードの組まれ方には、確かに“選択”があった。

私
一方で、
フェルナンド・モンティエル、
ジョニー・ゴンサレス。
この二人には挑んで、そして比較的早く敗れました。

ジョー白井
あの試合はな、勝てば得るものが大きかった。
だから受けた。
それ自体は、プロとして間違ってない。

私
ええ。
でも、だからこそ対照的に見えてしまうんです。
勝っても報われにくい試合は避けて、
勝てば評価が跳ね上がる試合には向かう――
人間としては自然なのに、ボクシングファンとしては、どうしても“物足りなさ”が残ってしまう。

ジョー白井
伝説ってのはな、合理性の外側で生まれることが多い。
負けるかもしれない相手に踏み込んだ瞬間、
勝敗とは別の何かが、永遠に残る。

私
正直に言えば、
もしバクティンや徳山と戦っていたら、負けていたかもしれない。
でも――
それでも見たかったんです。

ジョー白井
ああ。
負ける可能性を知ったうえで、なお進む背中だな。
長谷川穂積は、そこまで行かなかった。
だからこそ、彼は“完成された王者”であり、
同時に“未完の存在”として語られ続ける。

私
強さは証明した。
でも、強さの限界までは、見せてくれなかった。

ジョー白井
それもまた、ひとつの生き方だ。
伝説にならなかったことが、価値を下げるわけじゃない。
ただ――
語りたくなる余白が、そこに残ったというだけさ。

私
はい。
だから私は、長谷川穂積を嫌いになれないし、
これからも語り続けてしまうんだと思います。

ジョー白井
それでいい。
語られ続けるということ自体が、
彼が“ただの勝者”じゃなかった証拠なんだからな。